BETABOME(ベタ褒め)FACTORY

自分を褒めて。同時に他人も褒めて。色々感じたことや考えたことを書きます。

アート「アートを『なんでもあり』の世界にしたのは誰か」

Hi!
昔。
仲の良い友達、A氏とつるんでいる時こんなことを言われた。
俺たちは確か、どっかのモールで買い物をしていて、エスカレーターを下っている途中だった。
彼は突然、降りゆくエスカレーターに座り込んでこんな事を言った。

「お前、芸術とかいって絵を描いてるけどさ。
あれって『なんでもあり』なん?
例えば今、俺はエスカレーターで座り込んでいる。
この姿を『これはアートだ!』とか言って、写真や動画に収めたらそれはアートになるのか?」

一連の動作を終えると彼はニヤリと笑った。
「・・・・」
当時、俺は心から思った
「こいつうぜぇぇ」
実際にエレベーターに座り込んで、体全体をつかって伝えてくるところがまた子憎たらしい。笑
アートって下らないよね!
を彼は「体を使って」主張してきた。
こっちがどんな思いでつくってるかも知らないくせに!
と、当時はムキになっものだ。笑

しかし、実はこの質問、非常に、アートの根幹に関わる、質問に思う。
この質問は
今日のアートの『なんでもあり』っていう状況が、アート自身の首を締めているような現状を突いているのだ。
「アートって『なんでもあり』何を表現したっていいんだ!素敵ねっ!」
ではなく
「アートって『なんでもあり』じゃん。道端の石だってアートかよ!くだらないよ!」
というマイナスの印象。
A氏はそれを突いた。

皆はどう思いますか?
突然A氏がエスカレーターで座り込み写真をとって「これはアートだ」と主張した場合。
それは「アート」になるのでしょうか?

今回は
「アートは『なんでもあり』か?」

「アートを『なんでもあり』にしたのは誰か」
について話ていきたい。

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 アートは『なんでもあり』な世界である。

しょっぱなから結論を言います。
アートは『なんでもあり』な世界です。
つまり
道端で拾った石であれ、
A氏がエレベーターに座ったものを写した写真であれ、
作者が「これはアートだ」と言ってしまえさえすればそれはアートになります。
もちろん、それが評価されるか、売れるか、となると話はまた変わってくるが、それでも
アートの世界は『なんでもあり』なのです。
ではそんな『なんでもあり』なアートの世界では何が重要になってくるのか。
それは「コンセプト(考え方)」である。
道端で拾った石がなぜアートだと言えるのか
その根拠や考え方。
A氏がエスカレーターに座った写真がアートと言うことができる理由。
これが必要になるのだ。
アートは『なんでもあり』なものになった。
が、そうなることで
「コンセプト、考え方、アイディア、概念、」
が滅茶苦茶重要になったのである。
ということはだ。
逆にこう言うことが言える。
「美しい自然の風景を描こう」
「写実的に官能的な女性を描こう」
「色鮮やかに描こう」
作者はこんな事を思って情熱的に絵を描いたとしよう。
しかし今日のアートシーンはこう言い返してくる。
「美しい自然の風景を描く意味って何?だから何?」
「写実的に官能的に女性を描く意味って何?価値は何?」
「なんで色鮮やかに描くの?汚いといけないの?」
と言う具合だ。
何をやるにしても
「やりたいからやる!」
っってより、その先の
「やりたいからやった。で、だからなんなん?どういうコンセプトや意味があるの?価値はなんなの?」
と。
「それをやる意味や考え方が求められる」のだ。
全てのアートがコンセプト重視って訳でもないが、
それでも、良くも悪くも今日のアートシーンで「コンセプト」は非常に重要な要素になってしまった。

アートを『なんでもあり』にしたのは誰か

では、アートを『なんでもあり』にしたのは誰なのだろうか?
それは「マルセル・デュシャン」である。

デュシャンは今から102年前、
1917年に「泉」というタイトルの作品をニューヨークの「アンデパンダン展」に出展した。
その作品は
ずばり
「男性用小便器」だ。

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『泉』アルフレッド・スティーグリッツによって撮影された写真の一枚である
https://ja.wikipedia.org/wiki/マルセル・デュシャン#レディ・メイドと『泉』

左下に「R.MUTT」というサインがある。
デュシャンはただの便器にサインを書いて、作品として出展したのだ。
「泉」(便器)は当時、展示を拒否された。
「制作してないじゃん!!ただの便器そのまま置いただけじゃん!」
と。
拒否!
しかし拒否したことで、次の「問い」が生まれた。
「なんで自分でつくったものがアートなの?」
「既製品はなんでアートじゃないの?」
「便器はなぜ、アートじゃないの?」
「汚いものはなんでアートじゃないの?なんで美しくなきゃいけないの?」
「そもそもアートってなんなの?」
そう。
デュシャンは「アートの概念」を完全にぶっ壊してしまったのだ。
これによって芸術家の技術(スキル)や感性(センス)さえも、懐疑的にみられるようになった。
「美しい自然の風景を描こう」→「だからなんなん?」
「写実的に官能的な女性を描こう」→「だからなんなん?」
「色鮮やかに描こう」→「だからなんなん?」
デュシャンによってアートは
コンセプト、考え方、アイディア、概念、
が重要視されるようになった。
デュシャンは作家の技術(スキル)や感性(センス)を切り捨ててしまったからだ。
だからアートは視覚的には「なんでもあり」になった。
現代アートコンセプチュアルアート)」のはじまりである。

20世紀にデュシャンが便器を作品にして世界を騒がせ、その後のアートシーンを大きく変えた。
それは既に多くの人が知ってる。
そして話題にされ尽くされている。
でだ。
俺が言いたいのは
デュシャンすげぇ!
ただの便器を作品と言い切って出展するなんて!
ちょー革命的で過激で最高にかっこいいやつだぜ!」
ってことじゃないんだ。
今日、もっと過激で斬新なアートはいくらでも存在する。
俺は何が言いたいのか、
それは
100年経った今でもデュシャンのこの「アートとはなにか」という問いや「アートはなんでもあり」っていう状況から解放されてなくね?
って言いたい!
アートはデュシャンの「泉」から100年経った今でもコンセプト、考え方、アイディア、概念の束縛から開放、進化しきれない。
言葉は悪いが
デュシャンの呪い」
に未だに縛られているのがアートの現状だと言いたい。
考え
アイディア
コンセプト
面倒くさいなぁ
なんか、
一発、だしぬいて「あっ」と言わせた奴が勝ちなのかよっ
一休さんのとんちかよ!」
と。
ツッコミを入れたい自分がどこかにいる。笑

作家のコンセプトや考え方を楽しむ

とは言え
俺が思うにデュシャンの功績として
作家と鑑賞者との関係を能動的なものに変えた。
ってのがあるんだ。
作家は、思考を重ね、考えを練り「コンセプト」を掲げる。
それに対して鑑賞者は作家が組み立てた「考え方」を味わい、楽しみながら作家のコンセプトに迫る。
この関係。
これはまるで
「怪盗(作家)」と「名探偵(鑑賞者)」の関係に似ていると俺は思った!
「ルパン(作家)を追跡する銭形警部(鑑賞者)」
怪盗キッド(作家)を追跡するコナン君(鑑賞者)」
のような楽しさがあるのだ。
どういうことかっていうと、
作家が掲げたコンセプトに、鑑賞者は名探偵のごとく思考をめぐらせ、推理しながら迫っていく
そんな楽しさやスリリング、一種の思考ゲームを味わうような関係性が出来上がったのである。
デュシャンはチェスが好きで腕も凄かったらしい。
作家と鑑賞者の関係性がボード上で繰り広げられる思考ゲームみたいだ。
実にチェス好きなデュシャンが考えそうな発想だよね。

しかし。
これは同時に、アートを楽しむに当たって鑑賞者もレベルアップしなければならなくなったと言える。
鑑賞者は名探偵のごとく、作家のコンセプトに迫る必要があり、その過程を楽しむ。
だから、そもそも思考すること、考えること自体が好きでなければ
「アート?興味ないね」byクラウド
で終わってしまうのだ。
せっかく、作家が命を削って「コンセプト」を打ち立てても見向きもされない訳だ。

終わりに。人は思考する事でより豊かになれる

今日のアートは「なんでもあり」な世界です。
そしてデュシャンによって
作家自身の技術(スキル)や感性(センス)さえも
価値があるのか?
と切って落とされました。
さらに鑑賞者のレベルアップも要求される結果になりました。
「芸術?私にはセンスがないから分からないよ」
この主張はちょっと的外れなのです。
だって、センス自体がもうデュシャンによって一蹴されたから。
デュシャン的にはセンスなんてどーでもよいのです。

じゃあどうしろと??
。。。
最後にアートを楽しむちょっとしたコツを紹介!
それは
見る人は自分の価値観に従って作品に対して思いたいように考え、そして考える事を味わい楽しむこと
です。
アートと向き合う際は是非、自分が名探偵コナン君になったつもりで、自分の価値観に従って自由に作家のコンセプトを推理してみると面白いかもしれません。

以上。今回は
アートを『なんでもあり』の世界にしたのは誰か
というテーマで書いてみました。
アートの存在価値ってのは過去から現在に至るまで時代によって変わっていきます。
しかし、最後に
トドメの一髪
をアートに放ったのがデュシャンだと俺は思っている。
やっぱり、アートって小難しい
って思う方もいるかもしれません。
けど、実は
人は常に思考することで、その人が本当に望む、良い状態(コンディション)へと近づいていくような気がします。
俺が大好きなゲーム
聖剣伝説 LEGEND OF MANA
で、とある登場人物
賢人ガイアはこう言います。

「思考が思考を生み、永遠に答えが得られないようなときでも あなたは 考え、何かを想い、何かを得て新しいあなたになっている。
あなたは考えることで何か常に新しいあなたに生まれ変わっている。」

この言葉の中に、アートの価値ってのが凝縮されているように思います。
アートに触れて考え、思考をめぐらせて何かを感じ、何かを思う。
アートを通して考える事を楽しみ、味わいながら、新しい思いを発見して、少しずつ新しい自分になっていくことができたら、、
人の人生はより面白く、、味わい深く、豊かになっていくのではないでしょうか?

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
一応「聖剣伝説 LEGEND OF MANA」もベタ褒めしてますのでそちらも併せて読んでいただければ嬉しいです↓

betabomefactory.hatenablog.com

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