BETABOME(ベタ褒め)FACTORY

自分を褒めて。同時に他人も褒めて。色々感じたことや考えたことを書きます。

アート「アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)」を紹介する。

Hi!
アートの回です。
今回はアート「アウトサイダー・アートアール・ブリュット)」を紹介したい。
アウトサイダー・アート
これを日本語にそのまま訳すと、
「アウトサイド(outside)」→「外側」
「アート(art)」→「芸術」
つまり「外側の者による芸術」
ここでいう、「外側」とは
芸術の伝統的な訓練を受けていない者
芸術(美術)教育を受けていない者
を指す。
「なるほど!日曜画家とか絵を描くのが好きで、独学で絵を描いている人のこと?」
。。。
「違うんです」
アウトサイダー・アート」とは
精神障害者(特に統合失調症患者)
知的障害者
ホームレスや受刑者(社会の外の者)
の作品のこと。

正直俺は「アウトサイダー・アート」が苦手だ。
何故って
単純に怖い。
作品も怖ければ、作家も怖い。
さらに作品と作家の背景も怖い。
ネガティブ(負)のエネルギーに満ち溢れたものが多く、狂ったパワー炸裂!
しかも力強い!!
。。。

じゃあ、なぜ、わざわざ苦手な「アウトサイダー・アート」に迫るのか?
それは「アウトサイダー・アート」を紹介しながら「アウトサイダー・アート」について考えを深めることで、
どこまでが「インサイド(普通のアート)」

どこからが「アウトサイド(外側のアート)」
なのかを考えたいからである。
是非、皆様と一緒に「アウトサイダー・アート」を掘り下げていきたい。

日本においては「アウトサイダー・アート」というと、
知的障害者精神障害者の作品のみ」と思われがちだ。
それゆえ「アウトサイダー・アート」という言葉それ自体に、反感を感じる人も多い。
しかし、今回は1つのアートのジャンルとして「アウトサイダー・アート」に迫りたい。
ですので、この記事では「アウトサイダー・アート」という言葉を使わせていただきます。
話は

  1. アウトサイダー・アート」のはじまりは「アール・ブリュット
  2. ヘンリー・ダーガー」の紹介と「アウトサイダー・アート」の特徴
  3. どこからが「アウトサイド」なのか?どこまでが「インサイド」なのか?

です。
(記事では敬称は省略させていただきます)

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 「アウトサイダー・アート」のはじまりは「アール・ブリュット

アウトサイダー・アート」という言葉を用いたのは「ロジャー・カーディナル」
彼がもともと存在した「アール・ブリュット」というフランス語を英語訳した結果、
アウトサイダー・アート」という言葉が生まれた。
元は「アール・ブリュット
「アール」は「アート(芸術)」
「ブリュット」は「生の」
なので
「生の芸術」
この言葉をつくりだしたのがフランスの画家「ジャン・デュビュッフェ
彼は1945年にスイスの「精神病院」や「刑務所」を訪れると、そこで見た、精神障害者や受刑者の描いた作品に感銘を受けた。
彼ら、精神障害者や受刑者の作品は遠近法などの絵画技法や美術教育とは無縁であった。
これぞ「生の芸術!!」「アール・ブリュット」だ!
デュビュッフェにとっては「芸術的な訓練」や「美術教育」された作品は
「生(純粋)」
ではないらしい。
デュビュッフェは当時、制度化した美術教育や画壇の階級制に幻滅していた。
だから、「アール・ブリュット」という言葉をつくったデュビュッフェ的に言えば
アール・ブリュット」とは
「芸術(美術)教育を受けなかった精神障害者の作品」

「芸術(美術)教育を受けなかった受刑者の作品」
と言うことが出来る。
この「アール・ブリュット」という言葉をロジャー・カーディナルは1972年に
アウトサイダー・アート
という言葉に英語訳した。
英語訳されたことによって、「アール・ブリュット」は
精神患者の作品
受刑者の作品
という意味合いの他
「アウトサイド」
つまり「社会の外側の者によって作られた作品」という意味合いを持つようになった。
具体的には
ホームレスの作品
貧困者など社会的弱者の作品
心霊術者の作品
である。
まとめよう。
アウトサイダー・アート」のはじまりは「アール・ブリュット」である。
アール・ブリュット」とは「生の芸術」のことでジャン・デュビュッフェ精神障害者や受刑者の作品に感化されたことが発端である。
アウトサイダー・アート」とは

  1. 「芸術(美術)教育を受けなかった精神障害者の作品」
  2. 「芸術(美術)教育を受けなかった受刑者の作品」
  3. 「社会の外側の者(ホームレス、社会的弱者、心霊術者)によってつくられた作品」

である。

ヘンリー・ダーガー」の紹介と「アウトサイダー・アート」の特徴

アウトサイダー・アート」の巨匠といえば「ヘンリー・ダーガー」だ。
彼の作品を紐解くにあたって、彼の生い立ちが重要になるため、簡単に彼の生涯を追ってみる。
ヘンリー・ダーガー(以下ダーガー)」は1892年にシカゴに生まれる。
小学生の時は1年から3年生に飛び級するほど、読解力があったらしい。
ダーガーは8歳の時、彼の父親が体調を崩すと、貧しかった彼は少年施設で過ごしながら学校に通うことを余儀なくされる。
その少年施設は、虐待や児童労働で非常に問題があったところらしい。
ダーガーは少年施設で毎日のように重労働を強いられた。
彼には「トゥーレット症候群(チック症)」があって、口や鼻を鳴らすクセがった。
その結果、彼は周囲から「クレイジー」というあだ名を付けられる。
ダーガーが11歳の時「心に障害がある」と診断され、
知的障害児の施設へ入れられる。
(誤診との意見もあります)
ダーガーが15歳の時、父が亡くなったことを知らされる。
ダーガーは16歳の時、施設を脱走。
260㎞もの道を歩いてシカゴに戻ると、シカゴのカトリック病院の清掃員(低賃金の職種)を定年退職するまでの54年間勤める。
1973年81歳で亡くなる。
以上。

。。。。
なんという、生涯。
もう、なんにも言えません。
しかし、彼には驚くべき秘密があった。
彼は清掃員を勤めながら、訳60年に渡って誰にも知られることなく、
約1万5000ページのテキストと300枚の挿絵からなる物語
をつくっていたのである。
それが
非現実の王国で
正式名称は
「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリにアン戦争の嵐の物語」

物語は
子供奴隷制度をもつ国家「グランデリニア」とカトリック国家「アビエリニア」の戦争を描いたもの。
主人公は「アビエリニア」を率いる少女戦士、
「ヴィヴィアン・ガールズ(幼い少女たち)」である。
花が咲きほこる穏やかなシーンが描かれたかと思えば、ヴィヴィアンガールズ(少女たち)たちが腹を裂かれて血を流す拷問シーンが描かれている。
なんというギャップ。
作品におけるこのギャップは作家、ダーガーの精神の不安定さを思わせる。
彼がストレスを感じた時は、ダーガー自身(作者)がヴィヴィアンガールズの敵となって物語に登場し、少女たちに拷問を行うわけだ。
またヴィヴィアンガールズ(少女たち)は時に全裸で、全裸の少女たちには男性器がついている。
(男性器が付いていない少女の絵も多くある)
このことからダーガーの「性」が作品にぶつけられていることは言うまでもない。
ダーガーにとっては「非現実の王国で」を描くことは、
自慰(マスターベーション)の観点も含めて、もっと広い意味で、最高に自分を慰める治療行為だったと言える。

アウトサイダー・アート」の有名な作家は、他にもいるが、今回は「ヘンリー・ダーガー」に留めたい。
ヘンリー・ダーガー」を通して、「アウトサイダー・アート」の着目するべきポイントある。
それは、「アウトサイダー・アート」の作家は
自分の「正気」を保つ為に作品をつくる
ということだ。

だから彼らは、作品をつくりたくて堪らない。
つくらないと「正気」が保てないから。
オブラートな言葉で包むとするならば、
アートセラピー」を自分にほどこして、自己治療をする。
と言い換えてもいい。
従って、彼らから吐き出された(産み落とされた)作品は「狂気」を放っている。
ダーガーにも言えることだが「アウトサイダー・アート」の作家は、精神障害の有無かかわらず、
その生涯が波乱万丈に満ちた、非常に壮絶なものだ。
そして、
救いを求めるかのように
祈るかのように、
何かに取り憑かれたかのように作品をつくり続けるのである。
なぜって「正気」を保つ為。
作品をつくることを通して「狂気」を吐き出さなければ、彼らは自分自身がもっている「狂気」に犯され壊れてしまうからだ。
彼らの作品が信じられないほど細部まで描き込まれていて、恐ろしいほど絵が細かいというポイントも見逃せない。
彼らにとって、「描くこと」は「正気を保つこと」。
彼らにとって「描くこと」は「心の治療」
だから、彼らは描き続けていたいのだ。
細かく細かく。
それは自分を癒し、慰めることに繋がるから。
そしてそれが正気を保つことに繋がるからである。

アウトサイダー・アート」の紹介は以上になります。
なんとなく「アウトサイダー・アート」のイメージを感じ取っていただけたら嬉しいです。
ここからは一歩踏ん込んで、「アウトサイダー」という言葉から、
どこからが「アウトサイド」で、どこまでが「インサイド」なのか?
その境界線(ボーダーライン)を考えていきたい。
(話が長くなってしまい恐縮ですが、お付き合いいただければ幸いです!)

どこからが「アウトサイド」なのか?どこまでが「インサイド」なのか?

ここまでの話の中で、生まれる疑問がある。
それは
どこからが「アウトサイダー(外側)」なの?
ってことだ。
その境界線(ボーダーライン)を考えたい。
例えば、その①
世界的に有名な画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」(以下ゴッホ
ってどうなの?
彼は「後期印象派」の画家、という位置付けだが、
「耳切り事件」の名の通り、自身の耳を自ら切り落とし、最終的には自殺している。
友人である「ポール・ゴーギャン」との人間関係が悪化したからといって
自分の耳を切りますか?
痛いっつーの!
研究者によってゴッホは「統合失調症」だったという仮説もある。
俺は
ゴッホは立派な『アウトサイダー』じゃん!」
って思ってしまう。

例えば、その②
日本で有名な芸術家
草間彌生
ってどうなの?
彼女は幼い頃から「統合失調症」を患い、幻覚や幻聴に悩まされていた。
彼女の目には全ての物に水玉模様が写るらしい。
そして彼女はその幻覚や幻聴から逃れる為に、幻覚や幻聴を描き始めたのである。
俺は彼女に対しても
「『アウトサイダー』じゃん!」
って思ってしまう。

ここで誤解しないで頂きたいのは、
ゴッホや草間が患っている障害や彼らの背景につけ込んで、
彼らの生き方や作品にケチをつけている訳ではありません。
俺が主張したいのは、こうやって「アウトサイダー・アート」の要素を持った「グレーゾーン」の作家を挙げていくに従って、
絵を描いている全ての人、の絵を描く動機や背景には多かれ少なかれ「アウトサイダー・アート」の要素が含まれている
って言いたい。
絵を描いている人で、描くことそれ自体が好きで
描かずにはいられない
という動機を持って絵を描いている人が結構いる。
度合いは違えど、
この
描かずにはいられない
という欲求が恐ろしく強い者が「アウトサイダー・アート」の作家だ。
しかし
「描かずにはいられない」と
絵を描くことを楽しんでいる人(作家や趣味で楽しんでいる人)

アウトサイダー・アートの作家には明確な違いなど無いと思う。

むしろ作家の中には「自分は描かずにはいられない」と自己洗脳するかのように制作に取り組む人もいる。
自ら精神を消耗しまくった結果、おかしくなってしまう作家もいる。
あるのは度合いの違いだけだ
(描きたい欲求が大きいか小さいか)

「芸術(美術)教育を受けたか受けていないか」という観点だって同じである。
これだって度合いの違いでしか無い。
小中学校における義務教育の「図画工作」や「美術」を学んだ。
これはどうなる?
大した技術を学んだとは言えないので「アウトサイダー」としてセーフ?
美術大学できちんとした技術を学んだ。
この場合は「アウトサイダー」としてアウト?
そもそも、義務教育の時点で駄目だったとしたら、「ヘンリー・ダーガー」も「アウトサイダー・アート」の作家を名乗れないだろう。

アウトサイダー・アート」は
なにをもってしてアウトサイダー(外側なのか)それが非常に曖昧である。
そして突き詰めてみた時に分かるのは、
そこに明確な基準はなく、度合いや程度の問題に終止する。
で、
個人的な感想になるんだけど、
それが、苛立たしく、悲しい。
度合いや程度は違えども、絵が好きな人、絵を描くことが好きな人は皆
アウトサイダー」やん。
って定義づけられた気がするのだ。

アウトサイダー・アート」は「ジャン・デュビュッフェ」による「アール・ブリュット」(生のアート)の英語訳である。
が、それを元に、「ロジャー・カーディナル」がつくった
アウトサイダー
という言葉は、個人的にはずいぶん乱暴な言葉だと思う。
なぜか?
それは「アウトサイド」を考えるにあたって「インサイド」を考える必要が出てくるからだ。
そしてその実、蓋を開けてみると実際は
インサイド(普通のアート)」

「アウトサイド(外側のアート)」
にも明確な境界(ボーダー)など無く、

「制作への欲求」
にしろ
「芸術(美術)的な教育をどこまで受けた」
にしろ
「持っている技能や技術の優劣」
にしろ
「社会的な地位や立場」
にしろ
程度や度合いの問題に終止するのだ。
そしてこの主張は
アートと関わる全ての人を暗に否定する結果に繋がりかねない!!
と個人的には思う。
「アートと関わってると妄想の世界から出てこれなくなってしまうよ」
「アートと関わっていると精神的におかしくなってしまうんだよ」
「アートと関わっていると金銭面も含めて社会的に弱い立場になってしまうよ」
「アートと関わっていると怖い目に合うよ」
アウトサイダー・アート」は「アートが好きな人」の耳元でこんな言葉をささやき続ける。

以上になります。
今回はアート「アウトサイダー・アートアール・ブリュット)」を紹介しました。
冒頭で記述したとおり、
今回は個人的に
どこからが「インサイド(普通のアート)」

どこからが「アウトサイド(外側のアート)」
なのかを考えるにあたって、「アウトサイダー・アート」を紹介させていただきました。
そして結果、分かったことは
境界なんてない
でした。

アウトサイダー・アート」の作家はアートによって心を癒す機能「アートセラピー」の効果を求めて制作している節があります。
これは悪く言ってしまうと
「描く行為」「自身が正気でいる為に、自分の中に蓄積されていく狂気を吐き出す」
為のツールだと言うことができます。
だから、彼らの作品は、グロテスクだったりセクシャルだったりと怖い(不気味な)作品が多い。
しかし「アウトサイダー・アート」の作家に限らず、絵を描くことが好きな人や絵が好きな人が絵を描く動機の1つに「アートセラピー」の効果を得ている人も多いのです。
だから
アウトサイダー・アート」という言葉によって、
全てのアートには「アウトサイド(外側)」があることを示し、
その外側が負(ネガティブ)のエネルギーに満ちた、狂気の世界に繋がってることを示した
この主張と、このジャンルは個人的にはかなり苦手です。
皆様はどう思われますか?

。。。。
ここまで、熱弁しておいて、あれなんですけども、、
アウトサイダー」って言葉それ自体を使うだけで、
話が「二項対立」にすり替わるマジックが発生している
、、気がしてきた。笑
Wikipediaによれば「二項対立」とは

陸と海、子供と大人、彼らと我々、臆病者と英雄、男らしさと女らしさ、既婚者と独身者、白と黒、運動と静止、明と暗のように、相対立する一対の概念を二項対立という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/二項対立

この「二項対立」を応用したものそれが
「勝手に二項対立のマジック」
「勝手に二項対立のマジック」の例
「この世界にあるのはラーメンそれ以外である!」
みたいなもの。
こう勝手に定義されると、何を考えるにしても「ラーメン」と比較する必要が出てくる。

アウトサイダー・アート」って言葉。
アウトサイダー」と「インサイダー」と二項対立の構造を勝手につくり、
アウトサイダー」の方の意味や価値に焦点を置き、詳しく言及していく。
すると、こっちは「アウトサイダー・アート」がつくり出した基準に沿って「インサイド」について考えざるを得ない。
全てのアートを考えるにあたって「アウトサイダー・アート」を考えなければいけなくなる。
という構造の出来上がり!
一種の言葉のマジック。
このマジックこそ「アウトサイダー・アート」が注目される要因をつくり
アウトサイダー・アート」が美術市場で価値をもっている要因の1つなのかもしれないですね。

この言葉をつくった「ロジャー・カーディナル」は策士かそれとも。。。

長くなってしまいましたが、
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ブログ村に参加しています。

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