BETABOME(ベタ褒め)FACTORY

自分を褒めて。同時に他人も褒めて。色々感じたことや考えたことを書きます。

アート「表現(expression)」とは何か?

Hi!
絵画、彫刻、写真、映像、音楽、ダンス、演劇、その他肉体を使ったパフォーマンスからインスタレーション(空間芸術)などのさまざまなアートを
「表現(expression)」と一括りに捉えたい。
なぜ突然そんなことを言い出すのか?笑
理由は2つある

理由その1

「俺はロックバンドのヴォーカルで歌うことが好きだ。だが絵の良さは全くわからない」
とか
「私の趣味は写真を撮ること。けれどダンスの良さってさっぱり分からない。野蛮よ」
とか
言う人たちがいる。
芸術(アート)という大きな括りでは同種なのに、ジャンルが違うことを理由に互いに理解を示さない人たちのことだ。
そしてぶっちゃけ言うと、俺も彫刻、写真、工芸なんかのジャンルには疎い。
しかし苦手意識に目を向けずここでこう言いたい。
「みんな仲良くしなよ!」
と。笑

実は、考えても見ると事はなかなか深刻なんだ。
そもそも、芸術(アート)に興味のある人口は限られている。
少ないのだ。
高校生活、大学生活でバンド活動をしていた若者も、
学生時代、必死になって絵を書いていた若者も、
夜遅くまでダンスの練習をしていた若者も
社会人になれば、日々の生活に追われて芸術(アート)から離れてしまう。
結婚して家庭を持ち、子どもができれば芸術(アート)活動を続けていくことはより困難となるだろう。
だから社会人になってなお、芸術(アート)活動を続けている人の少ないこと少ないこと。
だからこそ、
全ての芸術(アート)を「表現」と一括りに考えることによって
他の分野の芸術(アート)に苦手意識を持たない、敵視しない思考が生まれると考えた。
余談であるが、俺は最近、「タクティクスオウガ」(1995年スクエアから発売)のゲームを初プレイし全クリした。
このゲームの物語は「民族紛争」である。
血みどろドロドロ物語だった。
同じ芸術(アート)において、違いジャンルに対し
「(良さが)分からない」と簡単に発言することは
軽い民族紛争である。
歌手が絵描きに
「絵のことなんて分からない」
とか
写真家がジャズピアニストに
「ジャズの良さは分からない」
というのは、
言っている本人に自覚がなかったとしても、そのジャンルを追究し頑張っている者の心に刺さる。
ただでさえ社会人になって、「芸術活動」を続けるだけでも大変だと言うのにだ。
「これはもう民族紛争だよ!」
分からないならば、分かろうとすれば良い。歌手ならば音楽的な観点から絵画を楽しめば良い。
「同じ人間(芸術)じゃないか!みんな仲良くしなよ!」

理由その2

これは完全に、俺の個人的な話になっちゃうんだけど、、
俺は絵画制作をメインにおこなっているが、ぶっちゃけ言うと
「絵を描くことがそんなに好きじゃない。むしろ音楽の方が好きだ」
「じゃ、なんでやってんの?」
って話なんだけど、、、悩んだ挙句、出てくる言葉は
「表現したいから」
「はぁ???じゃ、表現ってなんだよ!?」
ボク「。。。。うーん」
っつーことで、
この場を借りて、俺が考える「表現(expression)」について考えを深め
「表現」とはなんぞや?
ってことを自分の為に明らかにしたくなった!

是非、絵画以外でも、音楽やダンス、文章などなど、、
「表現活動」を行っている人と情報をシェアしたい。
そして「表現」って案外、めっちゃ尊いことかもよ?
って流れに持っていきたいです。

前置きが長くなってしまったが今回は
「表現(expression)」とは何か?
について考えていきたい。

話は

  1. 芸術(アート)をジャンルごとに区別せず「表現(expression)」と一括りにするメリット
  2. 「表現(expression)」とは何か?
  3. 地獄の生活の中で人が求めたのは1本の口紅だった

の3本です。

断定的な発言が多くなりますが全て個人的な意見です。ご容赦ください。

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(「Adobe IllustratorCC」の使用期限が切れて使えなくなっちまったぜ。トホホ)

芸術(アート)をジャンルごとに区別せず「表現(expression)」と一括りにするメリット

まず、絵画や音楽などの芸術(アート)を「表現(expresstion)」と一括してみる。
すると絵画や音楽は
「表現」する為の「手段」に成り下がる。
これは文章にすると分かりやすい。

「絵画で表現する」
「彫刻で表現する」
「文章で表現する」
「音楽で表現する」
「ダンスで表現する」
「◯◯で表現する」(◯◯には手段が入る

手段は絵画でも文章でもなんでも構わない。
重要なことは表現すること。
ここで表現する為の手段を
絵画にするのか?音楽にするのか?
考えることを蔑ろにしろ。とは言わない。
「アタイの性格の場合、じっとしていることが苦手よ!だから絵を描くよりも体を使って表現したいわ」
この場合、彼女は絵画よりもダンス、もしくは身体表現を表現する為の手段として選んだ方が良さそうだ。
しかし
絵画や音楽を
「表現するための手段」
として考えた時、
各ジャンルは一気に仲良くなれる気がしないか?

絵画のことはよく分からなくても、その人が何を表現したいかに着目する。
詩(ポエム)の世界は難解だが、その人が何を表現したいかに着目する。

バンドのギターを担当しているA氏にとっては、確かに絵画には馴染みがないかもしれない。
しかし、A氏よ!
君だってギターという楽器を通して「奏でたい音」があるはずだ!
「表現したいもの」があるじゃないか!
だからやってるんだろ!
根っこは目の前の絵画を描いた奴と一緒なんだ。
その絵描きにも「表現したいもの」があってそれを描いている。
同じ1人の表現者(ギタリスト)として表現者(画家)にむかって欲しい。
ところで俺は、絵をメインでやっているが「画家」という言葉が嫌いだ。
なんか弱そうじゃん。HP低そうじゃん?

ギタリストも画家もピアニストも詩人も、「表現者」と言う括りでまとめる。
すると他のジャンルの芸術家との距離が一気に縮まる(気がする)。

まとめよう。

  1. 芸術(アート)の各ジャンル、絵画、彫刻、音楽、ダンスなどなど、を「表現」する為の1つの「手段」にする
  2. ジャンルは違っても根っこ(目的)は「表現」で繋がれているので、他ジャンルへの共感や理解、が増す。
  3. 芸術(アート)の世界が一丸になっていく!

芸術(アート)の世界は前述した通り、少数派の世界だ。
しかし一見無縁だと思っていた別ジャンルの人同士を「表現者」として一括りにした時の力は計り知れない。
「俺らジャンルは違えども同じ表現者。いわば同業者。他ジャンルのことを分からないなんてブツブツ言ってねぇで仲良くしようや!」

「表現(expresstion)」とは何か?

「表現(expresston)」とは何か?自分なりの答えを出したい。
「表現」に迫るにあたって
今回は「ユートピア(理想郷)」と「ナチス強制収容所」を切り口にして考えを深めたい。
「は?なんで表現を語るのにユートピア?なぜにナチス??」
と思われるかもしれませんが、ぜひお付き合いください。

ユートピア」とは
1516年にイギリスの思想家「トマス・モア」が出版した『ユートピア』に登場する架空の国家である。
ユートピア」を和訳すると「理想郷」。
その言葉を聞いた時、私たちはこう想像する。
ユートピアかぁ。良いなぁ。きっとユートピアには美味しいものがいっぱいあって、
しかし、いくら食べても太らず、
かわいい女のもたくさんいて、モミモミし放題なんだろうなぁ。
常にいい感じに暖かくて、、海もあって、、、まさにリゾートなんだろうなぁ」
とな。
しかしトマス・モアの考えた「ユートピア」は違った。

ユートピア」の特徴

  1. 大陸から拒絶された孤島。
  2. 城塞都市を中心にして自然(木々)は幾何学的に整備されている。
  3. 生活は質素で規則的。
  4. 住民のスケジュールは労働、食事、睡眠など、厳密に決められている。(長時間労働は無い)
  5. 一般市民は皆平等に扱われるが個性をもってはいけない。
  6. 非常に衛生的でウイルスは無い。
  7. あらゆるところまで監視の目が行き届いているので犯罪はない。

。。。。
「ん?刑務所かな?」
そう。
彼の考えた「ユートピア」は超きっちり、超規則的な世界だったのだ。
その世界が良いとか悪い、と言う話は置いておき、
ここで注目したいのは
彼の考える「ユートピア」が「没個性」の世界であるということだ。
Wikipediaには「ユートピア」が
蜂の巣のように規則的な社会像
と書かれている。
そして考えて見ると、
蜂の世界ほどに無個性、没個性の社会ってない。
無数の蜂は死ぬまで1匹の女王蜂の為に働きまくって死んでいく。
蜂A、蜂B、蜂Cを仮に、ハッチー、八男、ハチ子と名付けた時、
彼らの社会では、ハッチーも、八男、もハチ子も、個性を出すことを許されない。
ただ機能的に、1匹の女王蜂の為に働き死んでいく。
それだけなのである。
そんな蜂たちの社会のようなところが「ユートピア

さて、ここで「表現とは何か?」という問いに立ち返る。
表現とは無個性、没個性への抵抗
である。
というのが俺の答えだ。

これも余談になってしまうが、
良い社会というのはある程度、規則や規律を人間に求める性質がある。
トマス・モアの考える「ユートピア」は行き過ぎかもしれないが、みんながみんな自由勝手にやったらそれこそ争いが起こり大変なことになってしまうからだ。
バランスが大切だ。

トマス・モアの考える「ユートピア」まではいかないまでも、
私たちは様々な場面においてこの
「無個性、没個性」を経験している。
学生は制服を着なければいけない。
学校の集会では皆整列して体育座りをし、教師の話を聞かなければならない。
就職活動においてはスーツにネクタイ。
などだ。
髪を金髪に染めた学生や耳にピアスを空けた学生は指導される。
集会で皆が体育座りをしている中あぐらをかいていれば注意される。
就職活動をする際ジャージで面接に臨めば内定を得ることはないだろう。

しかし、どんな人であろうと一度は考える、
「髪染めてみてぇな」
「厳粛な集会中一発ギャグをかましてぇな」
これを
無個性、没個性への抵抗
だと考える。
私は他人と違う。
私は私だ!
そんな気持ち。
これが「表現」の源だと考える。
「はぁ??考え方が幼すぎ!ガキかよ?」
とか
「そんな感情は若気のいたりだよ」
と言って笑ってしまうかもしれない。
確かに社会の一員となって必死に働く社会人からすれば
「何言ってんの?」
と冷笑されても仕方ないことである。
(だからこそ社会人になってもなお、芸術(アート)やるのって改めて大変なことだと思う訳だが。。)

地獄のような生活の中で求めたものは1本の口紅だった

ある程度の規則があるものの、自由に個性を発揮できる日本社会であれば、

「無個性、没個性の抵抗??
なんだそれ(笑)
ある程度、他人と歩調を合わせたりルールを守ることは必要なことだろ?
現に俺は企業できちんと働いて、高級車であるベンツに乗っている。
世の中の全ての人間がベンツに乗れる訳じゃないんだ。
これだって1つの個性だろ?
しかし俺のベンツはきちんとした労働の上になりたっているんだぜ。
お前は、無個性、没個性への抵抗だとか面接で持論を語った挙句、俺と同じ企業の採用に落ちている。
考えが甘いんだよ」

と俺は言われるだろう。
その通りだ。
俺だって高級車に乗りたいよ!!!

だが待って欲しい。次はトマス・モアが考えた
ユートピア」よりも更に「酷い場所」で「無個性、没個性」を強いられた人たちに目を向けようじゃないか!

究極的に無個性、没個性を強いられた人たち。。。
それは誰だ?
働きバチか??
。。。。
ここでは
ナチス強制収容所に収容された人たち
を挙げたい。
前提として、俺の「ナチス強制収容所」に対する知識は1946年に出版された
「ヴィクトール・フランク」の『夜と霧』を読んだくらいだ。
しかし、ナチス政権の下、
ユダヤ人を筆頭に多くの罪なき人が、収容所の中で過酷な生活を送り亡くなっていったことは簡単に想像することができる。
ナチス強制収容所での生活は、
究極の「無個性、没個性」の世界
と言っても過言ではないだろう。
なにせ、そもそもナチス政権は人間を人間として扱ってないのだから。
ここでは彼らの強いられた生活にについて詳しく書かない。
なぜなら俺の気が滅入るからです。
とりあえず言えることは
トマス・モアの「ユートピア」の方が全然マシ!!
で。
俺がここで「ナチス強制収容所」と絡めて紹介したいのは
「グラフィティ・アーティスト」である「バンクシー」が2008年に自身のサイトに挙げた
文章「マニフェスト
これは彼の画集「Wall and Piece」にも記載されている。
その文章によると
(俺の持ってる画集が英語版で日本語版じゃないんだ!笑
だから英語の読解力に乏しい俺の文章解釈になってる。すみません。本当の「マニフェスト」の文章が読みたければ皆様は日本語版を購入しよう)

収容所での過酷な生活。
いつ死んでもおかしくないほど過酷な強制労働。
ただひたすらに歩く。
すると横をあるいている人間はバタバタと倒れていくがそれには目もくれず歩く。
少ない食糧の中で、最期に錯乱し土を食べて死んでいく者。
そんな地獄の生活の中で、少ない支給品の中に、1本の口紅が紛れ込んでいた。
私たちは、腹が減っているにもかかわらず、
食べ物ではなく
皆、無我夢中で1本の口紅を求めた。

髪の毛を剃られ、
名前を奪われ、
着るものもボロ布で統一させられた同じような見た目の私たちは
1本の口紅によって、
それを唇に塗ることで

失っていた「人間性」を取り戻した。

そんな文章。
この1本の口紅に群がる、という行為。
これが
究極的に「個性」を奪われた人たちの
「無個性、没個性への抵抗」
であると考える。

この文章から分かることがある。
それは人間は、程度の差はあれども、
「無個性、没個性」を嫌い、
「個性的」であることを求める欲求が備わっている。
と言うこと。
そして
「個性的」であることで、人間は「人間性」を取り戻す。
と言うことだ。

繰り返しの発言になるが、
今日「自由と規則のバランス」に優れる日本社会では
「無個性、没個性へ抵抗」する者、
つまり「表現者」は多くないかもしれない。
なぜなら日本社会はある程度まで、個人の「個性」を尊重してくれるからだ。
ベンツに乗っても良いし、
お金を稼ぎまくって豪遊してもいい、
奇抜な髪型にしたって逮捕されない、
しかし、
たぶん、
表現者」って人たちはそれじゃ飽き足りないんだと思う。
高級車に乗ることで個性を出すことを選ばず、
絵画や音楽という手段を通して、自分をひたすら追い込み、
唯一無二の「個性」を求めて「無個性、没個性」に抵抗し続ける人が「表現者
なんじゃないか
と考えます。

以上になります。
今回は、
アート「表現(expression)」とは何か?
でした。

一口に「芸術活動」とか「表現活動」をやっている。
と言った場合、
それが具体的にはどんなジャンルであれ「表現者」はふと考える時がある。
私たちの活動は社会に還元できるのか?
人の役に立てるのか?
と。
医者は人の命を救う
警察官は悪人を捕まえる
教師は人を教え導く

非常に分かりやすい。

では「表現者」は?
仮に「表現者」の社会的な使命や、人に与える影響を考えた時、
表現者とは
「無個性、没個性」へ抵抗し続け、
自分で築きつくり上げた唯一無二の「表現」によって、
見る人の(鑑賞者の)「人間性」を回復させること
ではないか。と考える。
人間性」の回復
「表現活動」は、ストレスや「心の病気」自殺率の高い日本社会において、なかなか尊い活動かもしれません。
みなさんは「表現」をどう捉えますか?

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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