BETABOME(ベタ褒め)FACTORY

自分を褒めて。同時に他人も褒めて。色々感じたことや考えたことを書きます。

アート「フィンセント・ファン・ゴッホ」の魅力に迫る

Hi!
アートに全く興味のない人でも、
絶対知っている!
名前なら聞いたことある!
と言って良い程、有名な作家がいる。
それは「フィンセント・ファン・ゴッホ
個人的には中学校の美術教育では
なぜか
「鑑賞の授業」と言うと「ゴッホの作品を鑑賞しましょう」
っていう謎イメージがある。

情熱的な筆遣い。激動の人生。耳切り事件。など
多くのインパクトを残し、絵に興味がない人にさえ知られるほど、
圧倒的に知名度の高い作家、ゴッホ
「皆様はゴッホが好きですか?」
俺のゴッホに対する個人的な感想は
ゴッホの作品は好きでも嫌いでもないけど、彼の人間性は苦手」
って印象。
ってか。
「ヤバイっしょ!」
片思いの未亡人に想いを寄せ、相手方の両親に反対されると両親の前で、
ランプに手をかざして
「私が炎に手を置いている間、彼女に会わせてください」
とか言っちゃう。
「うわぁぁ」
これは絶対友達になれないタイプだし、俺が女だったら、ゴッホと付き合うのだけはマジで無理だわ。
と思ってしまう。
てんかん(神経疾患)か統合失調症か、それとも別の病気か。
病名は解明されていないが、彼が精神を患っていたことは事実だ。
そして発作に苦しみながら制作を続けつつも37歳という若さで自殺。
激動。情熱。狂気。ゆえに孤独。
俺が彼に抱いていた印象はそのくらいだった。
。。。
なんだけど、今、
上野の森美術館」で「ゴッホ展」が開催されているのです
(2019.10/11~2020.1/13)
そしてそれを見にいった知人が、俺にお土産として
「二本の糸杉」
という作品のポストカードをくれた。
で、
そのポストカードを見た俺。
「。。。。ええやん(にっこり)」
。。。
あれ?笑
おかしいなぁ。
しかしあれだ!
改めて考えてみるとゴッホに対して真剣に考えたことなかったな!
ということで、今回は「フィンセント・ファン・ゴッホ」の良さを真剣に考え、
彼の魅力に迫りたい。

話は

  1. 後期印象派の代表格「フィンセント・ファン・ゴッホ
  2. 情熱家、激情家、ゆえに孤独

の2本です。
「1」で美術史の視点からゴッホの魅力に迫り、
「2」で個人的にゴッホに対して思うこと(良さと不満)
を書いています。

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(「ゴッホ展」行きたいなぁ)

 後期印象派の代表格「フィンセント・ファン・ゴッホ

西洋美術史における「フィンセント・ファン・ゴッホ」の位置付けは、
後期印象派」(1880〜1990年)
である。
後期印象派とは文字通り、
印象派」の「後」を意味する。
そして後期印象派の代表的な作家3人。
ポール・セザンヌ
「ポール・ゴーギャン
そして
「フィンセント・ファンゴッホだ。
で、
彼らは「印象派」の作品に影響を受けながらも、それぞれ独自に自分たちの絵画を追究していった。
だから「後期印象派」と呼ばれながらも実のところ「印象派」との共通点は少ない。

ここでまず着目すべきところは、
後期印象派って本当に凄いってこと!
なにがそんなに凄いか?
それは後期印象派によって
絵画は「再現(コピー)」を止めたってこと。
これまで絵画は
「目に見えるものをそっくりそのまま描くこと」
が重要とされた。
それは、肖像画でも風景画でも静物画でも。

「目に見えるものをそっくりそのまま描くこと」
これはその風景やその人物を「再現(コピー)」すること。
後期印象派はそれに終止符を打った。
あれだけ色彩豊かな印象派の作品だって突き詰めれば、
自然(風景)のその一瞬(一瞬の光や空気)を描いたのだから
言ってしまえば
やっぱりその風景の「再現(コピー)」なのである。

因みに、大昔、哲学者のプラトンは「イデア論」の中で
「すでに現実世界がイデアの模倣(コピー)なのに絵画は現実世界を模倣(コピー)するわけじゃん?だから絵画は模倣(コピー)の模倣(コピー)。くだらねぇ」
って言っている。

で、
セザンヌゴーギャンゴッホの3人は、「絵画=再現(コピー)」をやめた。
凄い!!
アートの記事で度々言っているが、
自分は美しい風景や美しい女性を描こうとは思わない。
(風景画や美人画を描いている人を否定しているわけではありません)
個人的にはそんな時間があるならば世界中を旅行して絶景を見たいし、
可愛い子を口説く時間にあてたいのだ。
と言うことは。
言ってしまえば、俺のこの考え方も元祖を辿れば後期印象派に行き着く。
凄いぜ!
けど、
じゃ、どうやって「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切ったの?
1人ずつ、超ざっくり説明していきます。
まず、セザンヌ
彼は現実世界のあらゆるものの構造を分析して「ものの本質」に迫った。
だから、セザンヌ静物画を描こうとすると、見えた通りに描く「再現(コピー)」
ではなく、
セザンヌの目的に従って物の見え方(配置や角度)が変わる。
要するにセザンヌは見た通りに描くのをやめることで「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。

次はゴーギャン
彼の目的は「自然との一体化」
ゴーギャンにとっても絵を描くことを通して、モチーフを「再現(コピー)」することはどうでも良かった。
彼は「絵を描く行為」を通して「自然との一体化」をはかった。
簡単に言ってしまうとゴーギャンは非常に哲学的、宗教的なところを追っかけた。
その結果、
絵画は彼にとって彼の哲学や宗教(楽園)を追求するための1つの手段に成り下がった。
と言い換えても良いかもしれない。

そして最後はゴッホ
ゴッホは絵を描く時、
モチーフがなんであれとにかく感情を込めまくって描いた。
靴を描く時は靴に対して感情を込めた。
風景を描くにしても、風景をみてこみ上げてきた感情を絵にぶちまけた。
超絶激しいゴッホの感情をぶちまけて、作品にぶち込めた。
そうすることで「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。

後期印象派の3人の作家はそれぞれ方法は違えども
それぞれの方法で「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。
まとめ
後期印象派は「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。
方法

  1. セザンヌは「ものの本質」に迫ることで
    「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。
  2. ゴーギャンは「絵画」を「哲学や宗教を追い求める為の手段」にすることで
    「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。
  3. ゴッホは作品に感情を込めまくることで
    「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。

 情熱家、激情家、ゆえに孤独

(ここからはゴッホに対しての個人的な意見になります)
さて、
西洋美術史の文脈からゴッホに迫ってみると、彼がかなり偉大な人物に感じられる。
溢れきれない程の感情を作品に注ぎ込む。
この方法によってゴッホ
「絵画=再現(コピー)」の形式を断ち切った。
タネ明かしをすれば簡単なことだ。
感情を込めまくったからゴッホが描いた
「ひまわりの絵」は「本物のひまわり」を超えた「凄さ」がある。
ゴッホの「ひまわり(絵画)」

「本物のひまわり」
の再現(コピー)なんて言えないぜ!
凄い。
だからこそ、
ゴッホの溢れきれない程の感情が注ぎ込まれた作品は多くの人の心を掴むのか。
とふに落ちる。
ただ、個人的には
人間性がなぁ」
って思ってしまうのも本音だ。
冒頭に書いた
「ランプの炎で手を燃やしている間だけでも、好きな女に会わせろ」
発言。
ゴーギャンが自分の元から離れてしまう!悲しい!!行かないで!!!」
と錯乱して自分の耳を切り落とす
「耳切り事件」
しかも、その後、切った耳を行きつけの売春婦に届けるというおまけ付き。
ホラーかっ!
俺は、
本当は良くないこと、なのかもしれないんだけど、
結構
「作家の作品と作家の人間性
を関連づけてその作品を評価してしまう。
例えば、物凄く、美しく優しい、一途な愛を歌った恋愛歌があったとしよう。
その恋愛歌を仮に
「愛は永久。救命救急」
とでも名付けよう。
そしてその歌の作詞、作曲を手掛けたのはA子(仮名)だとしよう。
そんなA子が結婚して子どもを授かっているのにもかかわらず、
有名音楽プロデューサーのB氏と浮気していた。
とスキャンダルされたら。
「なんか冷めるやん」
「A子」と言う歌手に対しても
「愛は永久救命救急」と言う歌に対しても
「なんか、冷めるやん」笑。
作家と作家の作品に整合性がとれてないから。
因みにA子のつくった歌が
「浮気大好き。和気藹々」
だったらOKなんだよ。
整合性がとれてるから。

で、話が脱線してしまったが、
ゴッホに対しても、個人的には
「なんか冷めるんだよなぁ」(好きな人すみません)
どこが?
これは本当に個人的な意見で、しかもA子の例とも違うんだけど、
絵画(制作)をやってる時の「情熱」や「激情」などの感情をそのまま日常生活に持ち込んだらダメでしょ!
自分の絵画(制作)に対して、
溢れんばかりの「思い」「情熱」「激情」「感情」を最高に注ぎ込むのは良いと思う。
かっこいいと思う。
そして結果、最高に凄い作品が出来上がる。
良いことだと思う。
かっこいいことだし、素晴らしいことだ。
。。。
だけどさ。
絵画(制作)と実生活の態度や性格を一緒にしちゃダメでしょ。
絵画(制作)に情熱や感情をぶちまけるのはOKだよ。
けど、
ゴッホは溢れんばかりの「情熱」や「激情」
を友人や恋人、家族にもぶちまけれるんだよ。

誤解されがちであるが、
彼の人生は実際、
「決して不幸なもの」
なんかじゃないんだ。
何度も家族から、就職の面や金銭面でのサポートを受けているし、
27歳で絵画をはじめて29歳には
オランダの写実主義「ハーグ派」のモーヴ氏がゴッホに対して、
絵の指導をしたり、アトリエの為の資金を出したりと親身になってくれている。
けど、ゴッホ
ちょっとでも自分と考えが合わなかったり、
ちょっとでも自分が否定されると、
すぐに切れちゃう。
すぐに精神錯乱を起こっしゃう。

モーヴ氏がせっかく面倒を見てくれてても、
勝手に娼婦(シーン)と恋仲になってモーヴの反感を買う。
しかも結局、娼婦(シーン)に対しても
「意地悪になり、とても耐えられない状態だ」
とか言って(弟に手紙を書いて)ばいばい。
因みにシーンさんはその後入水自殺。
。。。
自業自得やん!
なのに、切れる。
「嫌だわぁ」

ここで、俺が大好きなバンド「DIR EN GREY」のボーカル「京」氏に目を向けたい。
彼はライブパフォーマンス中、シャウト、スクリーム、
グロウルやガテラルといったデスボイスと多用しながら、
時に自らの体を傷つけ、血を流して歌を歌う。
けれど、それをやって良いのはあくまで
ステージ上だけ
それを日常生活でやってごらんよ?
即通報だよ。

常々思っていることがあって、
作家には境界をわきまえる姿勢が必要だと思う。
スイッチを切り替えると言っても良い。
「絵画(制作)の上では最高に過激で感情込めまくってつくってもいい」
「ステージ上では最高に過激で感情込めまくって歌ってもいい」
けど、
実生活はきちんとスイッチを切り替えて
「優しくて思いやりのある人であろうよ」
「礼儀と節度を守って生活しようよ」
って思う。
じゃないと、
「人に迷惑がかかるじゃん」
芸術家が、斬新な、独特な考え方や思考をすることは素晴らしいことだと思う。
けど、
それが度を越して
「変」とか「キチガイ」って思われてしまったら、
目も当てられない。

だから、個人的にはその分別がつけられる「京」氏は本当にかっこいいと思う。
きちんとアート(音楽)の中で自分の「野獣」を表現し、昇華させてるからだ。
そして逆にゴッホが今日残した
負の遺産
があるとするならばこの辺だろうと思う。
芸術家といえば、
変わってる。
変人。
孤独。
理解されない。

死んでから名が売れる。
芸術に対するこの辺のイメージに一枚噛んでいるのは紛れもなくゴッホだと考える。

以上になります。
今回は
アート「フィンセント・ファン・ゴッホ」の魅力に迫る。
でした。個人的には
ゴッホに対しては思うところは冒頭で言った通り、
ゴッホの作品は好きでも嫌いでもないけど、彼の人間性は苦手。」
です。彼はしばしば
「悲劇の天才」
のような扱い方をされる節がありますが、
「自業自得では?」
と首を傾げたくなるところもあります。
しかし、同時に「後期印象派」の作家として彼が絵画(アート)に与えた影響は大きく、とても偉大な人物であることは紛れもない事実です。
個人的にはそんな一癖も二癖もある偉大な作家、ゴッホから学ぶこと。
それは
作家はつくっている時やパフォーマンスしてる時

日常生活
での在り方をごちゃ混ぜにせず、
切り替える(スイッチする)姿勢
が大切
です。
仮にゴッホが「制作」以外の日常生活ではきちんと
自身の欠点を省みて、
「激情」や「思い込みの激しさ」
と向き合いながら、
精神疾患」をきちんと受け入れ治療し続ければ、
彼が違った結末をむかえていたような。
そんな気がします。
(まぁそんな生温いことやってたら傑作は完成しなかった。と言われればそれまでか。)

ともあれ、最後に知人から頂いた「二本の糸杉」の感想で終わります。

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フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

草木は踊るように躍動し、
糸杉はそのあふれんばかりの生命力をどこまでも空へと高めていく。
昼間の月、雲、青い空と植物は調和されて美しい。
まるで大地、自然、空が互いに讃歌し合っているような。
豊かで壮大で。
かっこいい。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
ブログ村に参加しています。

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