アート「技術」vs「表現」
Hi!
私たちが芸術を見て感動する時、
一体何に感動しているのだろうか?
絵画の場合
「なんてリアルな肖像画!まるで本物の人間のようだ」
ピアノ演奏の場合
「なんと言う指さばき!高難易度の曲をいとも簡単に弾くのだろう」
フィギュアスケートの場合
「凄い!トリプルアクセル!3回転半!」
今、挙げた3つの「感動ポイント」には共通点がある。
それは
「技術」
絵画の場合はリアルな絵を描く「技術」
ピアノの場合は指を動かす「技術」(テクニック)
フィギュアスケートの場合はジャンプする「技術」(技術点)
そう。
「技術」という観点で芸術を評価することは案外簡単なのだ。
ピアノやフィギュアスケートの知識がない人にも分かりやすいし、
演奏や演技を評価する側も点数をつけやすい。
事実、音楽大学のピアノの試験は
ミスタッチしたら減点
という、「減点方式」である。
フィギュアスケートも転倒してしまえば、「減点方式」をとっている。
「減点方式」もまた「技術」という観点を重視している現れに感じる。
。。。
じゃあ「表現」はどうなるの?
ここが非常に難しい。
ピアノの「表現」部分の評価はどうなる?
フィギュアスケートの「表現」部分の評価はどうなる?
フィギュアスケートは人気なスポーツであるが
「表現」つまり、芸術採点の評価が分かり辛く、
評価がわれてしまったり、批判されたりする。
面倒くさいなぁ。
じゃ「表現」なんてばっさり切り捨てて「技術」だけで採点すればいいじゃん!
「技術」の圧勝!おしまい!
と割り切れば良いのだろうか?
ということで、今回は「技術」vs「表現」について考えていきたい。
話は
- そもそも「表現」ってなに?
- 「技術」とは「天使」であると同時に「悪魔」でもある
の2本になります。
今年もよろしくお願いいたします。
そもそも「表現」ってなに?
前述した通り、芸術において「技術」という観点から、
その人の作品や演奏、演技、パフォーマンスを見ることは分かりやすい。
しかし「表現」の観点から、
その人の作品や演奏、演技、パフォーマンスを見ようとすると途端に難しくなる。
まず大前提として
そもそも「表現」ってなんだよ?
って話だ。
。。。
ここではまず
「あらわすこと」
と、してみる。
すると次の問いが生まれる。
「何を?」
「アナタがあらわしたいことを!」
「アナタ(表現者)があらわしたいことをあらわすこと」
これが
「表現」
。。。
答えになっていないかもしれないが、
いったん、これを頭の片隅に置いて、ここから具体例を交えて考えていきたい。
さて、
ここで、ピアノ演奏に立ち戻る。
架空のピアニストをここでは「ピア子」とし、ピア子の演奏目的を考える。
今回、ピア子は「シベリウス」作曲の「樅の木」という曲を演奏することになる。
ピア子の演奏目的:A
ピア子は「樅の木」を演奏することで
「演奏テクニック」を人に見せたい。
「演奏テクニック」を「表現」したい。
だから序盤と中盤のアルペジオは限りなく高速で演奏し、
それ以外はテンポを極端に落とす。
弾くテンポを極端に変化させることによって、
そのギャップから「演奏テクニック」の凄さを見せつけたい!
ピア子の演奏目的:B
ピア子は「樅の木」を演奏することで
冬の厳しい情景。
見渡す限りの白。その白は決して潔い白ではなく、
ぼんやりとしていて薄暗い。
シベリウスがこの曲をつくったのは「第一次世界対戦」勃発時。
私はこの曲で「ぼんやりとした白」を「表現」したい。
それに伴って演奏では「不安」や「怖れ」を「表す」必要があるだろう。
しかしそれだけでは足りない!
そんな不安定で、不明瞭な白の中においても、
樅の木は大地に力強く根をはる。
だから「不安」や「怖れ」を「表す」と同時に
微かに、しかしはっきりとした「力強さ」も演奏によって「表現」したい。
だから、
序盤のアルペジオは限りなく早く、しかしその後、極端にテンポを落とすことは控えて。。。。
(以下省略)
ピア子の演奏目的:Aは
「演奏テクニック(技術)」を「表現」する。
これに対して演奏目的:Bの場合は
「ピア子の『樅の木』という曲に対する思い」を「表現」する。
という違いが分かる。
「アナタ(表現者)があらわしたいことをあらわすこと」
これが
「表現」
と先ほど定義づけたが、この意味で、
演奏目的:Aも、演奏目的:Bも、
ともに「表現」ということができる。
そう。
圧倒的「技術」を見せること
も
「表現」の内に内包されてしまうのだ。
で、
じゃ、皆様は演奏目的:Aと演奏目的:Bで
どっちが良いと思いましたか?
一概にどちらが良い、と断言することは難しいが
演奏目的:Aの場合、
ピア子の目的が「技術」を「見せる(表現する)」ことなので、
スポーツやアスリートっぽく感じられる。
「技術」を見せる(表現する)
という考え方は非常に分かりやすい。
それに対して演奏目的:Bの場合
非常に芸術的で哲学的。
「技術」は自分の「表現」の為の「手段」に成り下がり、
重要なのは
ピア子の「樅の木」という曲に対する「思い」や「考え」「熱」を「どう表すか?」ことになる。
一見、演奏目的:Bの方が高尚で、かっこよく聞こえるが、悪く言ってしまうと
「分かりにくい」
1回まとめましょう!
まとめ
「表現」とは「アナタ(表現者)があらわしたいことをあらわすこと」
- 「技術」を見せることも「表現」の内である。
「技術」を全面的に「表現」することは分かりやすい。 - 「技術」を手段とし「表現」を目指すと、芸術的、哲学的になる。
高尚だが分かりにくい。
「技術」とは「天使」であると同時に「悪魔」でもある
ピアノの演奏においても、フィギュアスケートにおいても、
「技術」を前面におしだした、演奏、演技は
分かりやすく
スポーツやアスリートのような特性が色濃くでる。
それに対して「技術」を「表現」の為の手段とした場合
その人の演奏、演技は
芸術的、哲学的
になる。
さて、
ここで、ピアニストやフィギュアスケートの選手の「思い」を考える。
彼らはこういう。(たぶん!)
(フィギュアスケートの選手の場合は「芸術」という側面と「競技」、という側面があるから一概にはいえませんね)
「「技術」を「表現」の為の目的にしたい!」
「じゃなきゃ「芸術」ではなくなってしまう!!」
と
「しかし!」
「だけど!!!」
「「表現」したいことがあるからこそ!
大前提として
「絶対的な技術」が必要なんだ!!」
。。。。
そうなのだ。
「表現」する為に必要な「技術」
これがなければ
「表現者があらわしたいこと」を「あらわす」ことができないのである。
なんというジレンマ。
ここで、「表現者」は「あらわしたいこと」をあらわす為に、
必死になって「技術」を磨く。
鍛錬を積む。
練習を重ねる。
そしてようやく「技術」を習得する。
それは本当に素晴らしいことだし、
その人の努力の賜物だと思う。
しかし。
ここで「技術」が持っている「悪魔」が顔を出す。
「技術」が持っている「悪魔」
それは。
練習を重ねてようやく習得した「技術」を手に入れたことで
表現者は「技術」に執着し「技術」に囚われ、
結局は「技術」を見せたい人
で終わってしまうことがある。
という危険性である。
「技術」を「表現」の為の目的にしたい!
と当初は考えていたにもかかわらず、「技術」を習得する過程で、
いつの間にかその「技術」を見せることが全てになっている。
という状況になってしまうことが多々あるのだ。
「表現」を見せるつもりが、
いつのまにか「技術」が全ての「脳筋」になっている。
これが「技術」が持っている「悪魔」である。
。。。。。
「じゃどうすればいいんだよっ!」
本当に難しい課題だと思う。
しかし、ここで日本のロックバンド「DIR EN GREY」のボーカル、「京」氏の「表現」を参考にしたい。
(なんかこのブログ、困るとたびたび「DIR EN GREY」が出てくる)笑
まず、京は自信がインタビューでも発言しているように
「俺ほど、感情を込めて歌うボーカルはなかなかいない」
と言う。
そして、、
「僕もそう思います!」(惚
彼ほど、「表現」に貪欲なボーカルはなかなかいない。
しかし!
「DIR EN GREY」の曲はどれも高難易度だ。
「DOZING GREEN(2007年)」を例に挙げた時
Bメロの後で「シャウト」
サビは恐ろしいほどの「高音域のクリーンボイス」
ラスト「ホイッスルボイス」3発。
ホイッスルボイス3発後、すぐさま「ガテラルボイス」
その後、「抜き気味のファルセット」
たったの1曲に対して使った「技術」は、
「シャウト」「高音クリーン」「ホイッスルボイス」「ガテラルボイス」「ファルセット」
の5つ。
凄い!
しかもそのどれもの「技術」の完成度が高い。
凄い!(惚
だけど!!
「技術」はこれほどまで高くとも、
京の「表現」は「技術」に終止しない。
彼はあくまで「技術」を「表現」の為の手段としている。
なぜ、それが分かるのか?
京は声の調子が悪くても、自身の「表現」を貫くからだ!
京は、あきらかに高音が届いてなくても歌う。
声の調子が悪こと自体を自分の「表現」にしてしまう。
音程がズレても歌う。
音程がズレたことさえもそれを「表現」に変えてしまう。
さらに、近年、彼はライブでタバコを吸いながら歌った。
これはボーカルにとって自ら「技術」を捨てるってことだ!
ボーカルがライブ中タバコを吸うこと。
少しでも歌うことに関心のある人ならば、それがどれだけ危険な行為かわかるはずだ!
歌をやらない人は想像して欲しい!
あなたが魚だったとしたら
藻(酸素)が全くない水槽に入れられることと一緒!
あなたが鳥だったとしたら
嵐の中、空を飛ぶことと一緒!
つまり自殺行為。
それはピアニストならば演奏前に
氷水の中に手を突っ込んで手の感覚をなくしてから演奏するようなもの!
フィギュアスケートの選手ならば、
靴紐をしっかり結ばず演技するようなもの!
わざわざ、喉のコンディションを限りなく悪くして、
「技術」を捨て、歌う。
その姿はまさに「表現」の鬼
当然、
高音は出ない。
ファルセットは濁る。
声量は落ちる。
だけど。
なんか凄い!
なんか感動する!
これが「表現」全振りの姿勢なのだと言うのか!
ライブ中、タバコを吸うことで「技術」をあえて捨て、「表現」を追求する。
彼のこの姿からハッとさせられる。
「技術」は「表現」の為の手段に過ぎないと!
仮に「技術」が「0」だとしても、
それが「表現」しない理由にはならない!!
と。
以上になります。
今回は、アート「技術vs表現」でした。
「技術」vs「表現」の答えになりますが、
これが「スポーツの世界」ならば、
圧倒的に「技術」の勝利だと思います。
しかし、
これが「芸術の世界」になった場合
「技術」を見せることそれ自体も「表現」に内包される。
というように考えました。
「技術」は、習得が困難なほど、評価されやすく、使う側も心地よい。
という反面、
「技術」一辺倒になってしまう危険性も孕んでいます。
それがこのブログで言う「技術」が持っている悪魔の側面。
アスリートならばともかく、
「芸術」に身を置く「表現者」はそのことを肝に銘じておく必要があるのかな
と思いました。
「技術」が「0」になる。
という書き方はおかしいかもしれません。
しかし人間である以上、その人のコンディションや性格があります。
演奏家や演技者が「100%」コンディションで演奏や演技に臨める方が少ないかもしれません。
そういう時に、「技術」が思うように見せられなくても「表現」しきる気概が欲しいです。
今回、このような話を記事にしたのは、
自分が現在つくっている作品に嫌気がさして
「やべぇ。描き直したい」
となったことが原因です。
しかし、締め切りの関係上
「描き直せない」
絵画も同じです。
描き直せば少なくとも、今よりも「技術」を見せることができます。
本当はそうしたい。
しかし、今回は「技術」に頼らず
ここから「技術」を無視して、泥臭くなることを厭わず、「表現」全振でつくりきりたい。
最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。
しばらく、制作とブログの同時進行となりますので、
ブログの更新頻度が落ちてしまうかもしれませんが、
今後もお付き合いいただければ励みになります。
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